櫛井征四郎「私の世界史教育回顧録」page2

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3 大学及び大学院生の頃(昭和37〜43年・1962〜1968年)

(1)総合大学における教員養成

私は東北大学の教育学部に入学した。当時の教育学部は旧帝大時代からの教育科学科と旧師範学校系の学校教育学科、それに特殊教育学科の3学科から成っていた。

2年次には希望と成績によっていずれかの学科に振り分けられたが、私は学校教育学科(中学校社会・西洋史専攻)に進んだ。これは小学校と中学校の教員養成を目指す学科ではあるが、卒業後の進路は高校や大学の教員になるもの、公務員や会社員になるものなど多様で、教職単位をとっても必ずしも教員になるとは限らなかった。

東北大学では学部に進むと、希望選択によって教育学部以外に、例えば文学部、理学部、医学部など幅広く他の学部の講義を受けることができた。私の指導教官は、イギリス議会史を専門とする岩間正光先生[4]であったが、3年生からは文学部の西洋史や東洋史、更には日本史や考古学などの講義や演習も受け、文学部の学生と共に学んだ。

このような「開かれた」総合大学で学ぶことができ、非常に恵まれていたと思う。

 

周知のとおり、戦前の教員養成は専ら師範学校で行われたが、戦後は教員の免許取得が一般の大学にも開放され、教員養成課程を持つ大学に限らなくなった。そうした在り方について賛否両論があろうが、少なくとも戦後の基調は「開放」と「自由化」で戦前と異なっていた。しかし、戦後約20年で大きな転換期がやって来た。

3年生の昭和39年、東北大学の教員養成課程を切り離して、宮城学芸大学(後の宮城教育大学)を作る話が急浮上した。教員養成課程の教官や学生は一致してこれに反対しいわゆる「宮学大闘争」が起こったわけだが、教員養成のための大学を全国各地に新設することは当時の文部省の方針であり、学内の反対意見は簡単に押しつぶされた。

戦前の学校教育が専ら師範学校出身の教員によって行われ、時代の趨勢に抵抗できなかったとはいえ、「忠君愛国」の名のもとに戦争遂行に協力し、教え子を戦場に送ってしまった。戦後はそれらの反省から、閉鎖的な体質を改めて開放的な教員養成制度へ転換し、再出発した筈である。私は今でも、教員養成が総合大学の中で行なわれる方が、たとえ色々と面倒な問題があるとしても、やはり優れていると思っている。

(2)1960年代の西洋史学会の雰囲気

戦後の西洋史学会は戦前のランケ流の実証史学、政治史・文化史などに代わって社会経済史、いわゆる「大塚史学」が一世を風靡した。イギリス史の大塚久雄、フランス史の高橋幸八郎、ドイツ史の松田智雄の3氏などがその中心で、比較経済史を研究し、方法論的にはマルクスとマックス=ウェーバーが主流であった。[5]

一方で、京都大学人文科学研究所の桑原武夫氏を中心とする教授陣のフランス革命関連の研究もまた盛んであった。[6]

私の独断と偏見になることを恐れずに言えば、当時の進歩的な学者・インテリの間には戦争体験を踏まえ、研究室に留まって専ら学問研究に打ち込むだけではなく、日米安保体制を打破して真に平和な国にすること、平和憲法を守ること、さらには保守政権に代えて民主的で革新的な政府樹立を目指すなどの、実践的な課題意識や使命感があったように感じられる。

吉岡・堀米論争[7]で有名な吉岡昭彦先生は、大学院での私の指導教官であった。

先生は大塚久雄門下の俊英で、近現代イギリス史を専門とされ、封建制の崩壊から資本主義の発達、更には資本主義の確立から大不況期へと精力的に研究され、当時の学会をリードし、多くの後進を育てられた。その学問への姿勢は厳しいもので、例えば週1度の4~5時間に及ぶゼミに参加するためには、3日間の予習を必要とした。[8]

(3)卒業論文と修士論文

私は卒論の準備のため、3年生の秋に上京し、神田神保町の古本屋街をはじめ日本橋の丸善や新宿の紀伊國屋書店を巡り、使えそうな洋書を探して歩いた。後には国会図書館や東大図書館へも行ったが、今日ではインターネットで検索し、注文も簡単にできるのだから隔世の感がある。

西洋史の卒業論文は邦文の文献をいくら引用しても価値がなく、原書の使用頻度が第一に問われる。従って4年生の時は辞書と首っ引きで、英文を翻訳する毎日であった。研究内容はナポレオンのエジプト遠征と第2回の対仏大同盟を軍事的に考察するもので卒論の題名は「フランス革命及びナポレオン時代における英仏関係序説」とし、400字詰め原稿用紙で約400枚書いたが、後から岩間先生に「普通、論文は100枚程度ですよ」と言われた。私のは翻訳調の、ただ長いだけの論文で、オリジナリティに欠けていた。

卒業論文でやり残したことが沢山あって、文学部西洋史学科の大学院に進んだ。

当時の入学試験は卒論のレジメ提出の他に、西洋史の論述問題、英文の長文解釈、それに口頭試問があった。面接官はアメリカ史の山脇重雄先生、ローマ史の祇園寺信彦先生、それに吉岡先生であった。第2外国語についてはドイツ語を少し読まされた。

進学後、修士論文はナポレオン時代の軍事史をやろうと思い、山脇先生に相談すると「もう軍事史は古いよ」と一蹴され、吉岡先生を指導教官として経済史をやることになった。論文の題は「ナポレオン戦争と枢密院令 Orders in Council」とした。

ナポレオンの大陸封鎖令に対抗して、イギリスは逆封鎖令とも言うべき枢密院令を出し、それを契機として英国内で自由貿易の萌芽的運動が起こったことを検証する内容であった。修士論文の枚数は100枚にも満たなかったが、卒業論文に比べるとほぼ2年間かけた分、だいぶ学術論文らしくなっていたように思われる。

(4)教育実習と教科教育法

大学4年生の6月になると、教職単位取得の総決算として仙台市内の小中高の学校に割り振りされ、3週間の教育実習を行なった。私は仙台一高に配置され、指導教官には文学部西洋史研究室の先輩でもある飯村富也先生が付かれ、指導を受けた。

ただ、指導といっても最初2〜3時間だけ先生の授業を参観させてもらい、後は私一人にされ「自由にどうぞ」という感じで、後の授業は完全に任された。私が担当したのはヨーロッパの中世、百年戦争や封建社会のあたりだったと記憶するが、教育実習の3週間は授業用のノートづくりが大変で、徹夜することもしばしばであった。

教育実習は貴重な体験となったが、大学から丁寧な事前ガイダンスを受けた記憶はないし、授業のやり方は自由放任で、例えば、指導教官と実習生に何度か授業を見てもらい合評会を行なって、授業改善を図るといったような綿密なものではなかった。

仙台一高は男子だけの典型的な受験校であり、先生方は実習生の受け入れや後始末が大変で迷惑だったと思うが、私自身は生徒の授業態度が良く熱心に聞いてくれたので、苦しくも楽しい授業ができ、世界史の教員になりたいという気持ちが強くなった。

最後の授業で生徒諸君に私の授業の感想を書いてもらった所、好意的なものが多かった中で、授業では「○○は画期的なことです」という言葉を盛んに使っていたらしく、「画期的という言葉を使い過ぎると、画期的なことも画期的ではなくなる」と指摘した生徒がいて、自分では気付かない大切なことを教えられた気がした。

教育実習が終わって飯村先生の自宅に招かれ夕食をごちそうになったが、そのような授業以外のことの方が、なぜか鮮明に思い出される。

当時の教職カリキュラムには「社会科教育論」とか「道徳教育の研究」あるいは「教育原理」などの科目はあったが、一般論ばかりで、例えば、年間の指導計画や授業の指導案の作り方、視聴覚機材の扱い方、実際の授業はどう展開するか、試験や評価はどうすれば良いかなど、教科教育法に関する実践的な講義や演習は皆無であった。

さらに、生徒指導や進路指導、教育相談などに関する科目もなく、教員になってすぐ必要になるノウハウはほとんど教えられなかった。教育実習においても、高校時代に教わった先生の授業スタイルをまねして、講義式一辺倒で進める始末で、教科教育法に関しての学習が絶対的に不足していたように思う。あれから40年余が経ったが、今の大学において、教科教育法の指導はどのくらい改善されたのであろうか。 →次のページへ


[4]岩間正光先生(1915〜1984)の代表的著作は次のとおり。

① 『イギリス議会改革の史的研究』 1966年 御茶の水書房

② 訳書『十八世紀政治史上のロンドン』(原書 L.Sutherland) 1969年 未来社

③ 『イギリス議会改革と民衆』 1979年 風間書房

[5]大塚史学に関する著作は数多いが、とりあえず次のものを参照。

① 大塚久雄・高橋幸八郎・松田智雄編著、『西洋経済史講座』全5巻(Ⅰ〜Ⅴ) 1960〜1962年 岩波書店

② 大塚久雄著、『大塚久雄著作集』全10巻 1969〜1970年 岩波書店

[6]⒜ 桑原武夫編、『フランス百科全書の研究』1954年 『フランス革命の研究』1959年 『ルソー研究(第2版)』1968年  『ルソー論集』 1964年  岩波書店

⒝  河野健二著、『フランス革命小史』 1959年 岩波新書 『フランス革命とその思想』 1964年 岩波書店 など。

[7]1960年度の歴史学研究会は60年安保闘争の高揚期に開かれたが、その中で吉岡昭彦先生は「封建制研究は、日本人にとって、もはや従属的意義しか持たない」「 我々の最大の緊要な研究対象は資本主義そのものであり、その分析をとおし社会主義への移行に照明を与えることである」などと問題提起し、また、別の論文で「歴史家の少なくとも一部は近代史・現代史の研究に移るべきだ」と提案した。

これに対して堀米庸三氏は、「われわれの課題が近代社会の把握と世界資本主義の形成・展開であるとも思わないし、それを国民的課題だと断定もできない」と反論し、問題意識は各人各様であるとし、安保闘争の経験を中世史の研究に生かして 行きたいとの立場を表明した。

この有名な論争の概略については、遠山茂樹著『戦後の歴史学と歴史意識』や、 成瀬治著『世界史の意識と理論』を参照されたい。

[8]吉岡昭彦先生(1927~2001)の代表的著作は次のとおり。

①  『イギリス地主制の研究』 1967年 未來社

②  『イギリス資本主義の確立』 1968年 御茶の水書房

③  『インドとイギリス』 1975年 岩波新書

④  『近代イギリス経済史』 1981年 岩波全書

⑤  『歴史への旅』 1991年 未來社