5 盛岡一高の頃(昭和48〜57年・1973〜1982年)
(1)世界史部会事務局と副教材作り
昭和48年に盛岡一高に転勤となった。盛岡一高は県下第一の伝統校で、百パーセントが進学するので、受験対策を意識した授業をせざるを得なかったが、生徒は勉学のみならず部活動や学校行事などにも熱心に取り組み、とてもやりがいがあった。
また、後に盛岡一高の校長や岩手県教育委員長を歴任された安藤厚先生や、盛岡三高の校長となった高橋満先生らと机を並べることができ、同僚の先生方にも恵まれた。
私は安藤先生の後を受けて、岩手県の世界史部会事務局長を勤めたが、主に年に1〜2度の部報発行によって先生方の情報交換や新刊書の紹介を図ったり、春季と秋季総会のお世話役をした。秋季総会は日本史と世界史合同で2日日程で行なわれ、大学の先生の講演と2〜3人の研究発表があり、懇親会や地理巡検も盛り込まれていた。毎年、県内各地をローテーションで回ったので、岩手県内の風土や歴史にも詳しくなることができた。9年間の専門委員・事務局の仕事で大きかったのは、昭和56年に盛岡で開催された全歴研の全国大会の運営に携わったことや、世界史部会による副教材作りであった。
だいぶ以前からプリントは作ってはいたが、それは授業省略のための要約であったり教科書の補足だったりで、学習する生徒の視点が欠落しがちであった。そこで、高橋満先生と相談し、昭和53年に『世界史の整理と演習』という副教材を作ることにした。
穴埋め式の作業を伴うもので、B5判で約180ページ、高橋満先生が古代と中世、私が近代と現代の原稿を担当し、タイプ印刷で業者に製本も依頼した。1冊700円の実費で生徒諸君に買ってもらい、授業でも使ったが、副教材作りはやがて世界史部会の取組へとつながった。
昭和48年から実施された学習指導要領第4次改訂では、文化圏学習の定着を図ると共に、生徒の関心を高め、歴史的思考力を高めるために主題学習や人物学習を図ることになったが、世界史部会はこうした流れを踏まえ、副教材作成委員会を立ち上げて、岩手県独自のものを作ることに着手した。
副教材の『人物世界史』は完成まで足掛け3年を要し、昭和58年3月に発行された。
活版印刷のA5判、約200ージの本で、50人以上の教員で執筆を分担し、約100人の世界史上の人物や群像を取り上げ、それぞれ伝記、歴史的役割と時代背景、重要関連事項や参考文献なども記した。1冊500円位で県内の高校に広く頒布され、その後も版を重ねた。完成した時、私は既に北海道に異動していたが、最初に企画・執筆した一人として、感無量であった。
同じ頃、教科書会社の教科書執筆や副教材作りにも少し関わった。[11]
(2)共通一次試験の実施と問題点
試行を経て昭和54年(1979年)1月から共通一次試験が始まり、それに伴い、世界史教育の在り方や生徒の意識も変化せざるを得なかった。
そもそもこの制度は、主として大学側の都合によるもので、入学試験の作成や採点の負担を軽減しようとする意図から始まったといえる。共通一次の試験問題は教科書に準拠して作られるから、従来よく見られた難問・奇問の類は一掃されたものの、四者択一のクイズ形式なので、分からなくても25%の確率で正答が得られ、マークシートの記号式なので、正確な漢字を書けなくても通用し、国語力の低下が始めから懸念された。
当初、高校側からは授業時間を確保する観点から、試験の時期をできるだけ遅くすること、世界史については、進度の関係で戦後史は出題しないでほしい等の要望が出された。始めのうちはこれらの点も配慮されたが、やがて守られなくなった。
共通一次試験が始まってから「教科書が厚い」世界史の受験者は激減し、「教科書が薄い」政経・倫社の選択者が激増した。この現象は自然の成り行きであった。世界史の進度は受験対策を考えると、3年生の12月までに現代史を終える必要が生じた。
また、生徒の授業への取り組み姿勢が激変した。それまでは授業が終わると質問攻めに会ったり、難しい質問でこちらが勉強を強いられる場面もあったが、そうしたことはなくなった。例えば、授業で紹介した、マチエ著・ねずまさし訳の『フランス大革命』上中下(岩波文庫)を読んだり、『岩波講座世界歴史全31巻』(1969〜74年)を夏休み中に数冊読むなどといった猛者もいなくなった。
共通一次試験は後にセンター試験となり、今年で31回目と定着しているかに見える。私は毎年世界史の問題を解いてみるが、当初に比べるとこなれてきたというか、単純に答えを導ける問題は少なくなり、時代的にも地域的にもバランスが取れた出題になっている。しかし、相変わらず四者択一で、歴史的思考力を育てる観点から疑問が残る。
(3)教科書の比較研究と世界史像の探究
世界史教育は、教科書を主たる教材として行われるが、それは主に大学の教員によって書かれているので、高校現場のニーズに合わないことがある。
従って、大学人だけに任せず、高校の教員も教科書作りに参加することが望ましい。各社の発行する教科書を常に比較研究し、教える立場から自分ならどのように書くかを考え、機会があれば教科書の一部又は1冊を書く位の気概があっても良い。学校には時々教科書会社の人が来るので、そういう機会を捉えて、具体的に教科書のどの部分をどう改めるべきか、積極的に意見を述べることも良い教科書を作るためには必要である。
私にとって、4単位で膨大な教科書の内容を生徒の「自学自習」も取り入れながら、現代までやり切ることをはじめ、教える内容にメリハリをつけ、教科書にはないエピソードも紹介して世界史のおもしろさを生徒に伝えること、時代区分を考えたり、各時代や文化圏の特色を大づかみする世界史像を探究することは、常に課題としてあった。
世界史像を考える時、従来マルクス流の歴史の見方や時代区分法は、ヨーロッパ中心という問題はあるものの、世界史の流れを大きくつかむ上で非常に役立ったのだが、やがて少しずつ変化が起こった。
1970年代以降、従来の社会経済史に代わって、近代のA・A・LA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)といった非ヨーロッパ地域が、欧米列強によって意図的に低開発状態に置かれ、従属させられたという従属理論や近代世界システム論[12]が盛んとなったが、これは東西問題よりもむしろ南北問題が深刻になってきて、第三世界への動向に関心が高まり、世界史像が問い直されるようになった時代状況を反映していたといえる。
やがて、社会史や心性史に力点を置く、アナール学派の歴史研究[13]も注目を浴びるようになり、世界史像の探究は次第に多様で複雑なものとなっていった。
私は当時、19世紀の時期区分や人物学習や従属理論に関心があって、岩手県の歴史部会や全歴研の大会で研究発表をしたり、いくつかの小論文を書いた。[14] →次のページへ
[11]帝国書院編集部、『総合 新世界史図説—初訂版—』 1982年 帝国書院 一部執筆
[12]例えばA.G.フランク(『世界資本主義と低開発』1976年 柘植書房、『世界資本主義とラテンアメリカ』1978年 岩波書店、『従属的蓄積と低開発』 1980年 岩波現代選書) E.ウイリアムズ(『資本主義と奴隷制』1968年 理論社、『コロンブスからカストロまでーカリブ海域史 1492ー1969』I・II 1978年 岩波現代選書)、W.ロドネー(『世界資本主義とアフリカ』1978年 柘植書房)、I.ウォーラースティン(『近代世界システム』全2巻 1981年 岩波書店)、サミール=アミンなど。
なお、従属理論は世界史の近代を理解する上で示唆に富むものだが、私には最近、 この半世紀のA・A・LA諸国の動向を省察して、やや疑問を感じる点も出てきた。
[13]アナール学派の第1世代にはL.フェーブル、G.ルフェーブル、M.ブロック、第2世 代には、F.ブローデル、第3世代にはル=ロワ=ラデュリ、フュレらが挙げられるがアナール学派の歴史研究に関しては、とりあえず次の文献を参照されたい。
① ル=ロワ=ラデュリ著、『新しい歴史[歴史人類学への道]』 1980年 新評論
② マルク=フェロー著、『監視下の歴史』 1987年 新評論
③ 竹岡敬温著、『アナール学派と社会史—「新しい歴史」に向かって—』 1990年 同文舘
④ 湯浅赳男著、『世界史の想像力—文明の歴史人類学をめざして—』増補新版 1996年 新評論
[14]⒜ 研究発表 ① 「世界史における19世紀の諸問題」 1974年 岩手県高教研
② 「世界史副教材の効果的利用」 1978年 岩手県高教研
③ 「世界史における人物学習」 1979年 全歴研第20回東京大会
⒝ 小論文 ① 「世界史における19世紀の再検討」 1974年 年報社会科研究
② 「世界史における人物学習の試み」 1979年 年報社会科研究
③ 「近代史におけるアフリカとラテン=アメリカ —奴隷貿易・プランテーションと低開発—」 1980年 年報社会科研究
④ 「世界史教育の現場から(その1)」 1981年 年報社会科研究