櫛井征四郎「私の世界史教育回顧録」page3

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4 新米教員の頃(昭和43〜48年・1968〜1973年)

(1)教員採用と研修

私は昭和43年4月、岩手県立陸前高田高校住田分校(昭和45年住田高校として独立)に、新米教員として赴任した。

実は昭和40年に北海道の採用試験を受け合格していたが、大学院進学のため就職を断わり、2年後に再度北海道を受けたものの不合格となった。他の試験は受けておらず、行き先を失った私は、陸前高田高校の小野寺忠男校長に採って頂いたのである。当時は教員採用や人事における校長の権限が、今よりはるかに強い時代であった。

戦後、新制高校になってからしばらくは、全国的に高校教員が不足して、北海道から本州方面に求人に行ったり、岩手県でも、社会科の先生が英語や保健体育など免許以外の授業を持ってしのいだ時期があったと聞く。ただ、北海道では昭和40年代に入ると教員数がほぼ充足し、社会科は5~6年間一人も採用しなかった時期があって、私はこの時期にぶつかったらしい。こうした経緯は私が岩手県から北海道へ帰って来てから知ったことで、当時は一度採用を断ったことが不合格の理由だと思い込んでいた。

私は1年目は期限付き採用で、教員をやりながら岩手県の採用試験を受け、正式採用となった。後に故郷の北海道へ戻ったが、結局14年間岩手県で勤務することとなった。

平成に入ってから、全国的に初任者研修が本格実施され、教員の研修制度は大幅に改善されたと思われるが、当時は新米教員向けの研修は特になかった。ただ、赴任して間もなく教頭から校長室に呼ばれ、「金と女性に気をつけなさい」と言われた。これは値千金の教訓で、教員生活の折々にその時のことを思い出し、自ら戒めとした。

 

授業は週18時間程度で、世界史、地理、倫理社会などの科目を掛け持ちしたが、もちろん、授業以外に1年目から学級担任を持ち、校務分掌や部活顧問の仕事もあったから教材研究は学校の勤務時間内ではとても無理で、帰宅してからも机に向かった。

世界史だけは大学院生の時、宮城県の古川商業高校で時間講師のアルバイトをして授業用ノートは作ってあったが、B5判の100枚綴りのレポート用紙をファイルして新たに作り直し、やがて十数冊になった。その際、教員の「虎の巻」とも言うべき教授資料はできるだけ使わぬようにし、大学の先生の書いた概説書や単行本などを参考にした。

また、それだけでは満足できず、陸前高田や大船渡にある本屋に注文して「西洋史学」「史学雑誌」「歴史学研究」などを取り寄せ読んだりもした。

社会人になっても、しばらくは学生気分が抜けず、ラッセルの『哲学の諸問題』の原書を使って同僚と輪読会をしたり、研修の機会に飢えていたので、大学時代の岩間先生が主催される研究会のため仙台に行ったり、後には東京と地方で交互に毎年開催される全歴研(全国歴史教育者研究協議会)大会にも自費で出席した。

さらに、岩手高教組に加入し青年部の研修活動にも参加したが、日教組が昭和26年に掲げた「教え子をふたたび戦場に送るな」の精神を肝に銘じ、戦前・戦中の暗い時代と悲惨な戦争を追体験するため、国内外の関連する本を心がけて読むようにした。

当時の組合は、人事院勧告の完全実施、教頭の法制化と五段階給与導入反対、教科書問題等多岐にわたる課題があり、時にはストライキをも辞さない運動を行なっていた。当時の世界情勢を振り返ると、ヴェトナム戦争(1965〜75年)が依然続き、米ソの緊張関係は改善されず、第3次中東戦争(1967年)、チェコ事件(1968年)、中ソ国境衝突事件(1969年)など国際紛争がある一方、核拡散防止条約の調印(1968年)や、アポロ11号の月面着陸(1969年)などの明るいニュースもほんの少しあった。

一方、日本は70年安保前後の頃で、東大安田講堂事件(昭和44年)、赤軍派の日航機よど号ハイジャック事件(昭和45年)、あさま山荘事件(昭和47年)など、国内を震撼させる大きな事件が続発し、社会科の教員としては教育問題のみならず、政治や社会の動向に無関心ではいられなかった。[9]

(2)全歴研ヨーロッパ研修旅行

教員になって5年目の昭和47年夏に3週間の全歴研ヨーロッパ研修旅行に参加した。

世界史を教えているうちに、文献や写真で世界史の舞台のことがある程度分かったつもりでも、実物を見ていないので隔靴掻痒の感に襲われ、海外旅行を決心したのである。

当時、海外旅行は高額で(旅費だけで45万円)誰もが手軽に行ける時代ではなく、貯金もないので、お金を工面するのが大変だったが、行きたい気持ちが困難を克服した。

まだ円の持ち出しに制限があり、往路は東南アジア経由で伝染病の予防注射が義務づけられ、トランジットがあるため羽田からアテネに着くまで片道計18時間もかかり、復路は北極圏とアンカレッジ経由で帰国するといった時代であった。

訪問した国はギリシア、イタリア、スイス、オーストリア、東西ドイツ、イギリス、フランス、オランダなどで、駆け足旅行ではあるが世界史の研修旅行だけあって、一般の観光客が寄らない所へも行き、向こうに留学している日本人学生から専門的な説明をしてもらう機会にも恵まれた。旅行仲間とはその後も親しく交際することとなった。

8ミリカメラを持参し、スライド用写真を撮り、絵はがきや美術書も沢山買ったので帰ってから、授業でそれらを生徒に見せたほか、校内研修会や岩手県の研究会等で報告することとなった。[10]

もう37年も前のことだが、旅行で得た見聞はいつまでも脳裏に蘇り、その後の授業で生かすことができ、何物にも代えがたい貴重な経験であった。「百聞は一見にしかず」であるが、体験して分かったこと、印象に残ったことを、いくつか箇条書きしてみる。

① パルテノン神殿の壮麗さと大理石の柱のきらめき。真っ青な空と海の色。

② ポンペイの遺跡を歩いて知った、古代ローマ都市の先進性。

③ ピサの斜塔の大理石のすり減った螺旋階段と、気温42度の猛暑体験。

④ コークを沢山飲んだ真夏の乾燥した空気と暑さ。ローマの水道水のおいしさ。

⑤ ボッテチェリの「春」や「ヴィーナスの誕生」(板画)の虫食い跡の発見。

⑥ ルネサンス絵画の職人的な薄塗り。印象派絵画の絵の具の厚さ、色彩と陰影。

⑦ 宮殿や美術館の広さと、天井の隅までゴテゴテと飾り立てる西洋人の美的感覚。

⑧ シャルトル大聖堂の神秘的なステンドグラスの青い色(シャルトルブルー)。

⑨ 見た目重視のイタリア人気質と、実用性と耐久性優先のドイツ人気質。

⑩ 「ベルリンの壁」の恐ろしさと、醜悪さ。

⑪ 海賊の戦利品陳列所のような大英博物館。見学には1週間かけるべし。

⑫ 食べ物や水などは日本の方が絶対良い。にわかに国粋主義になる海外旅行。

 

私は今まで海外旅行を5回経験したが、やはり昭和47年の旅が一番印象的であった。

世界史を専門とする教員には、研修の一環として、希望により外国のいずれかへ公費補助による派遣の制度があれば良いと思うが、実現はなかなか難しいであろう。

経験的に言えば、世界史の教員は補助がなくてもできるだけ早期に海外旅行をし、見聞したものを授業で生かすようにしたいものである。 →次のページへ


[9]当時の国内事件を知るには、例えば危機管理の分野で著名な佐々淳行氏の著書、『東大落城ー安田講堂攻防七十二時間』 1996年 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 1999年(いずれも文春文庫)や『20世紀全記録』 1987年 講談社 などがある。

[10]① 研究発表、「ヨーロッパ見たこと・聞いたこと」1972年 於 盛岡三高(岩手県高等学校教育研究会社会部会歴史部会秋季総会)

② 小論文、「ヨーロッパ旅行からー美術史を中心としてー」岩手県高等学校教育研究会社会部会発行『年報社会科研究』第14号1972年度掲載